急行大雪 早朝の北見到着 ’79 |
機関車DD51に続いて荷物車(マニ60?)、郵便車(オユ10?)
10系寝台車×3、グリーン車スロ54、スハ45系客車×4の10両編成。
残念ながらAB寝台のオロハネ10は連結されなくなった。
北見から先、網走までは普通列車となる。
写真撮影は1979年、5年ほど前までは急行編成の普通列車をC58が牽引していた。
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こっちでは青森行急行はまなすがラスト1ですかね。
車体が細い--->車内の幅が狭い--->椅子の幅も狭い
ってことになるんでしょうね。
ああいう客車は電化前の福知山線の各駅停車によく使われていて、DF50あたりが牽引してました。でも急行は、すでにすべてDC化されていたので、1979年までこういった客車が急行運用についていたというのは、ある意味、私にとって発見です。
冷房は当然ありませんでしたが、こういう古い客車は、暖房の効きが抜群だった。ちょっと暑いくらいでした。
【明星】は当時、全部で7往復くらいありました。需要があったんですね。
で、【明星】に使われる581/583系は、向日町運転所を出ると、そうやって九州へ夜行で入り、九州内で、【有明】の運用に入ったんです。西鹿児島到着が朝になりますが、西鹿児島午後発の【有明】の3往復くらいは581/583系で、その日は博多で泊、翌日朝の【有明】で、西鹿児島へ戻り、その日の夕方にふたたび【明星】となって、関西へ戻ってきたのでした。
【有明】の博多--->西鹿児島の運用は、たぶん朝始発から3本くらい続けて581/583系だったと思います。時間があれば古い時刻表の列車編成表で確認してみてください。
そういえば熊本から西鹿児島まで父と乗ったのは583系の昼行だったなあ。それも1976ですよ(偶然) そのあと富士で戻ったのですが。
581/583系は万能選手だったんですね。gamera63さんの話だと昼夜フル稼働ですね。過労死しそう(笑)
そう、それが目的で作られた形式です。
【有明】のほかにも、【はと】や【しおじ】の運用もこなしてました。
東日本では【ゆうづる】や【はくつる】で夜行をこなし、【はつかり】で
昼間も走ってましたね。
高度成長期、とめどなく拡大する輸送需要を満たすには、車両基地の拡張も限界に達してつつあった時期だったんじゃないでしょうか。581系が誕生した'67時点では、長距離優等列車も、地方へ配置するという考えはあまりなかったようで、西日本の場合は向日町が一手に引き受けていた感じがありました。
早朝の国際便に乗る時って、せめてその空港近くに宿泊しないのかなぁ~? 【きたぐに】か【はるか】のどっちかが遅れたらアウトでしょ。。。
北陸方面から国際線利用なら便利なのですかね。
gamera63さんおっしゃるとおりちょっと怖いですけどね。
以前、神戸から大阪経由で関空に行くとき、思いのほか時間がかかって
札幌行最終便に遅れそうになったことがあります。
自分が乗り継いだ関空快速の到着時間が飛行機の出発後だったんですよ。もうだめかなと思ったら、天王寺で5分くらい後発のはるかに乗り換えると出発15分前に着くことが分かり、最後は猛ダッシュでした。
グランド・スタッフの方にお待ちしておりましたと言われて恥ずかしかった。
国際線なら完璧にアウト!です。