ニセコバスのKINSAN COACHI |
私のサイトに、1976年にkuriさんが撮影された貸切時代の583の写真を掲載していますが、前面の塗り分けパターンが567とまったく同じで、且つ方向幕の「貸切」の筆跡もまったく同じに見えます。
この事から、567と583は同じ時期にニセコバスに移籍して同じ人が方向幕の筆を取ったとみて間違いないと思います。
このグループは1973年式ですが、遅くとも1976年までにはニセコバスに移籍しているわけで、当時のニセコバスにしては破格の存在であったと思われます。
この時代の方向幕はやはり手書きだったんですね。
たった3年でニセコバスに移ったということは、ほとんど新車ですよね。
中央バスが帝国に型を揃えることにしたんでしょうか?
44では中央バスが金産の独特のマスクに塗装を合わせるのに
苦労した気がしますね。塗り替え前は縦ライン?が外側になりすぎて
他の日野車と比べて違和感ありますよね。
塗り替えた後は縦ラインがほとんど見えなくて、やっぱり変?
ニセコバスはというと金産のマスクに塗装がピッタリで、上のひげ?も
ウイングマークにちょうど合ってますね。
73年頃までは中央本体でも観光顔に金産、路線顔に帝国が多く、そのためニセコにも金産が多いのではと思います。
帝国では35号があったようですが、金産車が20両も一気に採用されたのにたいして、帝国製は数台しかなかったようです。バスラマ別冊の「金沢ボデーのアルバム」に金産全車の車両リストがありますが、中央の20両も載っているようです。
帝国製の35号は記憶になかったです。金産は大量導入だったんですね。75~76年頃は観光顔が一気に増えたような気がします。
日野/帝国ばっかりと思っていたらふそうが1400代あたりから入り始めた気がします。クレハ&富士重ですかね。対していすゞはなかなか入らなかったような・・・